2018(H30)/04/30(日) 平成はあと1年
夕食の時、ばあちゃんと話をしました。というより、一方的にききました。
祖母「あんたらちゃいい時代に生まれたもんだよ」「戦争だけは何が何でもするもんじゃないよ」
私の祖母の実家は若栗村(現:黒部市若栗)でありながら、祖母の父親は、富山ではなく金沢の連隊に所属して、士官の一歩手前の地位だったそう。支那事変が起こる直前、いよいよ戦争かという雰囲気になり、金沢へ会いに行ったそう。当時は路面電車などに乗り卯辰山の連隊まで行ったそう。帰りにあんころ餅を買ったとか。
「中国の各都市を陥落させて、本当に酷いことをしたもんだよ。」と言っていた。
支那事変のまさに前線にいた父親は、4月頃に無事に帰ってきて、小学校へ入学する私の祖母のために、金沢でいいランドセルを土産に買って若栗へ戻ったそう。
ちなみに戦地とのやりとりは郵便で、しかも軍事郵便は無料で、1日に3通届くこともあったそう。
地位が上がると、思想調査があり、調査員がその人の家族や周辺の人をまわって調べてあらいた(色々行った)そう。
若栗の家は田んぼをでかいと(沢山)持っていたお陰で、食べるのには苦労しつつも周りの家よりは食べられていたそう。それでも百姓でありながら白いご飯は食べられず、サツマイモやジャガイモを混ぜて学校へ持って行ったそう。多めに持って行き、休み時間中には、本当に食べられない人に分けていたそう。
米農家なので、隠れて米を他の人に売っていたそう。それでも、食べていけない人は恵んで欲しいをいって来ることもあったそう。ある人は、夫が戦争へ行き、妻は子供を抱えながらも女性が働く時代ではなく職がなく、すがる思いで祖母の実家へ来ていたそう。毎回子供のために子供のためにと母親がまともに食べていなかったらしく、まだ子供だった私の祖母の見ている目の前で、私の祖母の親が「いくら子供に食べさせても母親がだめになったら誰が子供の面倒みるがけね。」と言い、目の前で梅干しととろろ昆布のおにぎりを食べさせたそう。1個だけ食べきったそう。「今でも鮮明に覚えとるよ」と言っていた。
総理大臣が陸軍大将東条英機の時代。とにかく軍から食べ物を隠すのに苦労したそう。
私の祖母の実家で米を買っていた人の中には、当時黒部川水系の電源開発を行っていた日発(日本発送電)の関係者がいたそう。それで第二次大戦中にも関わらず、大変お世話になっているとのことで、日発の課長にまで話をして、当時は黒三までしかない黒部ルートを案内人付けて祖母含め数名で行かせてもらったそう。
当時の200mの立坑エレベーターは金網だけで、ヘタしたら吸い込まれてしまう勢いだったと言ってた、あと、今と違って導水管で十分に冷却されていない高熱隧道を通った際は、「あつてあつて蒸し焼きにされるかと思った」と言っていた。
「袖の擦れも縁の内」というように、どこで繋がっているかわからないと言っていた。
富山の大空襲の際は、祖母の家族で祖母だけは寝ていて観ていないそうですが、若栗からも富山が燃える様子がみえたみたい。拾ってきた焼夷弾の破片がまだあるとか。
以前聞いた私の祖父の話では、B-29が頭上を飛んでいったり、富山の街や空が真っ赤になって燃えとったそう。
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