Date:2019年01月05日(土) Loc:富山県高岡市
Cam:Google Pixel3 XL
武田信玄の弟の子供が織田信長の手から逃れて、武田が加担する一向宗の寺があるここに移り住ん出そう。武士から農民になり、苗字を伏せ、武士の知識(読み書き算盤)を生かして村をまとめていたそう。ちなみに武田信玄もその弟も信長に殺されたそう。しかも前田家も信長方なので敵陣内です。ただ、徳川家康は武田の元家臣を取り込んだりしていて肯定派なので、江戸時代以降は隠しつつももう咎められる事は無かったそう。明治初期に戸籍法で武田を再び名乗り、子孫であることを公にしたとの事。
家は平地と山の際にあり、水を得やすい。また海も近く網元でもあったそう。氷見の方なんかは内陸まで海や湿地が入り込んでいたみたいですが、ここが近くに古墳があるくらいで、昔から陸地みたい。
武田信玄の弟の子供が織田信長の手から逃れて、武田が加担する一向宗の寺があるここに移り住ん出そう。武士から農民になり、苗字を伏せ、武士の知識(読み書き算盤)を生かして村をまとめていたそう。ちなみに武田信玄もその弟も信長に殺されたそう。しかも前田家も信長方なので敵陣内です。
ただ、徳川家康は武田の元家臣を取り込んだりしていて肯定派なので、江戸時代以降は隠しつつももう咎められる事は無かったそう。明治初期に戸籍法で武田を再び名乗り、子孫であることを公にしたとの事。代々口伝えで武田であることを受け継ぎ、また武田菱の入った提灯箱は隠し部屋に閉まっていたそう。
簀子にムシロを敷いた天井は囲炉裏の煙を屋根まで通すためのもので、防虫が目的。屋根裏は次の葺き替えの為の茅を蓄える場所だったそう。屋根と一緒に燻して防虫したそう。
近所の女性が結婚前に女中として花嫁修業をして、ここで寝泊まりしたそう。知識のある元武士の家で修行しただけあり、信用は高かった。
明治初期にアメリカ製の時計を輸入するだけの財力
田んぼや土地の測量に用いる棒
上から8尺、9尺、10尺?だそう。
加賀藩に納める年貢の量を知る為に測量したそうで、毎年1坪だけ先に収穫してその実り具合から年貢の量を交渉したそう。
ただ、徳川幕府に石高を隠蔽するため、田んぼの面積をわざと小さく記したそう。加賀百万石は130万石あったとか。
武田の家紋の入った提灯箱
武田菱
逃げ延びて暫くは近くの寺に住んだそうで、家自体はほとぼりが冷めてから建てたみたい。
それまで住んでいた高岡市伏木の勝興寺は一向宗 浄土真宗で、仏教徒の武田家の保護を受けていたことから、敵地加賀藩に占領された越中でありながら匿ったそう。
左の掛け軸の、1番上が武田信玄で、その右下が弟。その子供がこの家の当主。
横山大観の絵があった。
明治元年生まれの大観が35歳の時らしく、まだ無名な頃。
犬養毅の書
ちなみに、位の低い人(地域の人と住人)用の厠の持ち手が隠れ武田菱になっていました。
香木の伽羅を植えていました。
タタキ土間といって、粘土、にがり(海水から塩を取ったあとのもの)、石灰をまぜて塗り、ある程度固くなってきたら木の棒で叩いて締め固めるそう。
室内にも井戸がある。外にもある。
熱源&防虫の囲炉裏
自在鉤がでっかい
屋根裏へは、人はハシゴですが、茅などは滑車でここから持ち上げたそう。